鯖棒亭日乗(下)

日常の記録写真と駄文  sababoutei@gmail.com

高野山01

高野山について簡単にだが書いていこうと思う

仏教、そして密教となるとあまりにも複雑すぎて俺自身も理解しきれてないし簡単にしか書けないのではあるが

知れば知るほど面白く興味深い教えの一つである

高野山へは何らかの理由で空海さんに呼ばれた人だけが訪れることができると言われている

つまり「高野山へ行きたい」と思い立った時点で空海こと弘法大師に呼ばれているのである

「ちょっときなさい」と

呼ばれた理由は本人が高野山を訪れて奥の院へ参拝した時に知ることになるはず

ちなみによく間違えられることに弘法大師の呼び方がある

確かブラタモリでも女子アナが間違えてたが聖徳太子と同じように「たいし」と呼ぶ人がいるが正しくは「だいし」である

弘法大師 

漢字は「太」ではなく「大」なのだ

本名は空海

室戸岬での修行中に洞窟の中から見えたものが「空と海」のみ

そこからつけられた名だと言われている

弘法大師とは空海さんが入滅後に醍醐天皇から頂いた諡号である

ちなみに幼少の名は佐伯真魚だ

親しみを込めて「お大師さん」「弘法さん」などと呼ばれることも多い

そんな空海さん

若かりし頃は大学で勉強をしていた

あの時代に大学で勉強できるのだから空海さんも地元ではエリートだったはずである

しかし同時代に生きたライバルであり共に仏道を学ぶ最澄さんはスーパーエリートである

唐へも国からお金を出してもらい留学できた人だ

それに対して空海さんは自費で唐へ渡る

きっかけは大学の勉強に疑問を抱き19歳の頃から山での修行に入る

この時に修験道との交流があったと思われる

ブォーブォーと法螺貝を吹く山伏さんである

そしてこの頃に真言宗の基礎となる「大日経」にも触れて僅かながらに日本へ伝わってきている密教とも出会ったのではないか?とも

ただこの頃の空海さんの足取りはよく分かっていない

そして24歳の時に後に国宝となる『聾瞽指帰』を書いて決心する

仏道への道を

唐へ渡ることを

西暦804年

日本仏教の基礎となる天台宗真言宗

それぞれの開祖でもある最澄空海

船は違えど同じ日に唐へと旅だったのであった

今と違い命をかけた旅である

半分の船は遭難した

しかし二人は無事にたどり着く

これも縁である

仏教との縁

国からの支援を得ている最澄は予定通り足早に天台の教えを学び少しだけの密教を日本に持ち帰った

空海さんの乗った船は嵐により流されて予定外の場所へとたどり着いた

そのためになかなか入国審査が通らない

海賊などの疑いをかけられて50日間拘束

そんな時に空海さんの書が助けとなった

遣唐大使に代わり空海さんが福州の長官へ嘆願書を代筆した

「な、なんて素晴らしい文章。そして素晴らしい字」

「こんなの素晴らしい物が書ける人は決して悪人ではない」

ようやく空海さんは長安入りが許された

時間は無い

しかしまずは語学の勉強だ

天才空海密教を学ぶために必要な梵字などをありえない速さで習得した

密教の基礎をあらかじめ学んだ空海さんは満を持して恵果の待つ青龍寺へと向かった

真言八祖の第7祖 恵果

空海さんのお師匠さんだ

東寺の五重塔の第1層の内部にこの真言八祖の肖像画が描かれている

毎年特別公開があるので是非見てみてほしい

ほとんどの人は興味なく通り過ぎていくだけだ

師匠となる恵果は空海さんを一目見て全てを見抜いた

空海さんがすでに密教の基礎を学んできたこと

そして空海こそ真言密教の跡を継ぐものだと

突然日本からふらりとやってきた一人の僧「空海

全くもって無名である

「あなたが来るのを待ってました」

恵果は空海さんに密教の全てを教えた

空海さんも短時間で全てを習得し密教最高仏の大日如来と結縁した

「この世の一切を遍く照らす最上の者」大日如来を意味する遍照金剛の灌頂名も与えられた

南無大師遍照金剛は7回唱える

空海さんへのお参りの基本でもある

しかし既に恵果の体は病に侵されていた

空海密教の全てを伝授すると恵果は静かに息を引き取った

「早く帰らねば」

「1日も早くこの素晴らしい教えを日本へ持ち返らねば」

同じ時に唐に渡った最澄は国家プロジェクトによる留学だ

そのために帰国も完全保証されて既に帰国している

しかし空海は20年という長期留学を約束に唐へ渡った

それをたった2年足らずで帰国するということは死刑にも値する行為である

そして日本へ向かう船に確実に乗船できる保証も無い

そもそも船すらでないかもしれない

幸いなことに運良く日本行きの船が出ることとなった

折しも行きに遭難した空海の乗った第4船に乗船していて

その後遅れて唐に再渡海していた遣唐使判官の高階遠成の帰国に便乗することができた

空海は日本へ向かった

密教を日本へ伝えるために

そしてこの後、長い間日本行きの船はでなかった

まさに最後のチャンスであった

もしこの時に空海さんが船に乗れなかったら日本の仏教界と歴史は大きく変わっただろう

帰国途中でも嵐に遭遇

五島列島福江島玉之浦の大宝港に寄港してまずはそこで真言密教を説く

後に大宝寺は西の高野山と呼ばれるようになった

そして遂に空海は日本へと帰ってきた

806年10月

空海は無事、博多津に帰着

太宰府に滞在して朝廷に自分が持ち帰った密教に関する目録を書き記し提出した

しかし死罪にも値する行為になかなか京へ入る許しはでない

しばらく空海太宰府に留まることとなる

やがて時代が変わる

のちに空海さんの親友であり良き理解者となる嵯峨天皇が即位した

時代は新しい仏教密教を求めている

最澄が持ち帰った密教はごく一部である

密教を学びたい」

最澄空海の入京へ力を貸したとも言われている

そして二人は現在の神護寺にて出会うこととなる

そんなお話はまた次回にでも

 

高野山の話を書くと言っておきながら高野山の高の字すら出てきていない

高野山を総本山とする高野山真言宗真言宗の中でも特に空海さんへの信仰が強い宗派である

なのでとりあえず空海さんの人生を語らねばなるまい

空海知らずして高野山は語れないのだ